ICERの評価基準
算出されたICERの値が、その医療介入の経済的な妥当性を示すものとして、どの程度の水準であれば「費用対効果が良い」と判断されるのか、その評価基準は非常に重要です。国際的には、1QALYを獲得するために社会が支払ってもよいと考える上限額、いわゆる「支払意思額(WTP:Willingness-to-Pay)」の概念に基づいて、ICERの閾値が設定されることが一般的です。日本においても、支払意思額に基づく調査結果を踏まえ、決定された「500万円/QALY」が一つの参照点として議論されることがあります。これは法律で定められた絶対的な基準ではなく、あくまで目安です1五十嵐 中、薬剤経済,わかりません!、ファルマシア、2015、51(10)、937-941。海外の評価では、この数値を機械的に適用するのではなく、対象となる疾患の重篤度、他に有効な治療法がないといったアンメットメディカルニーズの度合い、対象となる患者さんの数、社会的公平性への配慮、倫理的な側面、さらには医療技術の革新性といった、多くの要因を総合的に考慮して、そのICERが社会的に受容可能かどうかを判断されます。また、新しい介入が既存の治療法と比較して、より大きな効果をもたらし、かつ総費用もより低くなる場合(「Dominant」と呼ばれる状態)は、ICERを計算するまでもなく、明らかに費用対効果に優れていると評価されます。
ICERでは測れない多様な価値
ICERは、限られた医療資源を効率的に配分するための判断材料として有用な指標の一つですが、医療技術が社会や個人にもたらす価値の全てを、この単一の経済指標だけで網羅的に表現することは困難です。例えば、医療技術が確立していない難病に対する新薬の開発は、たとえICERが高くとも、その疾患に苦しむ数少ない患者さんやご家族にとっては希望となることがあります。また、特定の医療技術が持つ先駆性や革新性が、将来のさらなる医学の発展や新しい医療技術の開発に繋がる「イノベーションの価値」も、短期的なICERでは測りがたい重要な側面です。さらに、患者さんが治療を受ける上での利便性の向上、副作用の軽減による生活の質の細やかな改善、治療の選択肢が増えることによる自己決定の尊重や安心感、あるいは稀少疾患における治療法の確保といった観点なども、単純なQALYの増加だけでは十分に評価できない大切な価値といえます。このような観点から、従来の費用とQALYに基づくICERを越えて、より広範な社会的価値を捉える新たなフレームワークの検討が進んでいます。International Society for Pharmacoeconomics and Outcomes Research (ISPOR)の「Value Flower」は、治療の価値を多面的に評価しようとする世界的な潮流を反映しています2Neumann PJ, Garrison LP, Willke RJ. The History and Future of the “ISPOR Value Flower”: Addressing Limitations of Conventional Cost-Effectiveness Analysis. Value Health. 2022;25(4):558–565.。(Value Flowerの詳細は「価値に基づく医療(Value-Based Healthcare)と医薬品」参照してください。)例えば、臨床的な有効性に加え、多面的な価値を総合的に考慮した上で「増分価値に見合うだけの増分費用なのか」を評価する場合、単純なICERに基づく評価と結論が変わる可能性があります。医療技術の価値を社会全体で共有し、革新的な治療の恩恵を受ける環境を議論する上で、極めて重要な展開となっています。
- 1五十嵐 中、薬剤経済,わかりません!、ファルマシア、2015、51(10)、937-941
- 2Neumann PJ, Garrison LP, Willke RJ. The History and Future of the “ISPOR Value Flower”: Addressing Limitations of Conventional Cost-Effectiveness Analysis. Value Health. 2022;25(4):558–565.
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